「小さなまつり」について考える
突然ですが、、、
「まつり」は、たのしい。
闇の中 煌々と灯る明かりに群がるムシの如く、明るく賑やかな場所に引き寄せられ、知ってる人も知らない人も一緒になって「なんだかめでたい」などと言いながらやんややんやと浮かれ、羽目をはずす。束の間そこに集まった人々は貧富や優劣など日頃縛られている“鎖”から解き放たれ、同じ喜びを共有している「一体感」に包まれ、幸福に感じる。冷静に考えるとなんとも不可思議な「人の営み」であるが、世界中どこを見渡しても「まつり」は存在するわけで、我々の暮らしにはまつりというものが不可欠なのだな、とつくづく思う。
車もインターネットもなく「村社会」が生活の全てだった時代は去り、人々の行動範囲が国単位・さらには地球規模まで広がってきた現代。自分の住んでいるごく狭いエリアのコミュニティへの依存が薄れる中、“村”単位での「小さなまつり」が、存続の危機に立っている。
何年も前からその必要性を問われていた地域の小規模なまつりが、コロナの禍中 数年にわたって中断し、そのまま復活することなく消滅していくという現象は、全国規模で見て決して少なくないはずだ。
確かに「まつり」は、それを司る/運営する側に立ってみると、これほど煩わしいものはない、と感じたりもする。
何日も前からいろんな準備をしなければならない。よく知らない人たちと分担し、調整しながら役割を果たす。日頃からのコミュニケーションが薄いと、大した仕事でもないことに多くの時間を割かなければならなかったり、昔からのしきたりや「通例」という非合理的な手順に従うことに、時にはバカらしさを覚えたりする。
しかし、である。
歳をとり、免許も返上し遠くまで出かけられなくなったとき、何万という人波に揉まれなくとも、提灯の火が灯る神社までちょっとがんばって歩いたら祭囃子が聞こえてきて、いくつかの露店をひやかし、余興を楽しみ、10分足らずでも間近の頭上 夜空に咲く大輪を拝んだりできると思ったら、なんだか嬉しくないか。ひと昔前 共にまつりを回す側で働いた懐かしい顔に出くわし、互いの近況を語り合ったりできたら、幸せではないか。
一方で、
… 車や電車でちょいと時間をかけて出かければ、華やかで豪華な山車が出て有名人がパレードをし、夜には何万発もの花火が上がる「派手な」まつりがあるじゃないか。わざわざ自分らで時間と金を費やしてショボいものをやらなくとも。神社もあちこち統合して有名どこにまとめて合理化すれば …
このような考えも以前から自分の中にあって、いまでもふた通りの考えが頭の中で逡巡して、立場をはっきりさせられないでいる。
今年たまたま地域の役員の仕事が回ってきて、まつりや地域の行事の運営の端っこにかかわっていること、そして同じくたまたま、今年そういった「小さなまつり」に呼んでいただき演奏する機会が多かったこと、親や付き合いのある人たちがだんだんと高齢になってきたこともあってか、自分の「老後」についてもボツボツ思いをはせつつ、こんなことをフト考えてしまう、秋の夜である。
都会で暮らす人や、一つの土地に根を張りそこに骨を埋めることに頓着しない人にとっては、いまいちピンとこない話かもしれませんね。
昨今 国内各地で頻繁に発生しているクマの問題や、世界的な地域紛争の問題と同じく、他所の人間がとやかく口を挟むことがはばかられる、デリケートな一面もあり、、、
ナカナカムズカシイ問題である。
- 2023.10.18 Wednesday
- 15:30
- 太鼓界よどこへ行く
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